1990年後半からの映像記録装置に関しては、カムコーダーはHi8からminiDVへの切換が進み、やがて磁気テープから
ハードディスクドライブやらメモリへの記録と云うことになるのだが、据置型となると足踏み状態の感はあったかと。
テープ媒体に関してはベータ方式が事実上終焉状態に陥り、DV方式も出してはいたもののカムコーダーからの
ダビング用途としての用途(送り出し側)でしか無く、結局のところ実質VHS(S-VHS)から変わらず縮小方向に。
一方のディスクレコーダーに関してはとにかく後手後手だった感は否めない。それはLD(レーザーディスク)に次ぐ
光ディスク規格争い-SD(Super Density disc)(東芝、パナソニック)vs MMCD(Multi Media Compact Disc)
(ソニー、フィリップス)-の実質的敗北から引きずった形であったかと。結局SDをベースにしたDVDが
統一規格として出てきたわけだが・・・しかし統一できたのは実質再生専用のDVD-ROMだけ。
記録可能な媒体はまたも分断される形になってしまう。当初はTV放送録画に合わせたDVD-R/RW(パイオニア)、
自社開発のデータ記録媒体・PDをベースにしたDVD-RAM(パナソニック、日立 後に東芝、日本ビクター)、
そしてMMCDでの屈辱を晴らす形で出現し、挙げ句の果てに独自アライアンスまで発足することとなった
DVD+R/RW(ソニー、フィリップス、ヒューレットパッカード)の三つ巴戦に。
前置きが長すぎたが、先に書いておいたほうが「何故、ソニーがディスクレコーダーに関して後塵を拝したか?」を
説明したかったというのもあったのだが・・・それだけではなく内部分裂めいた処もあるので、それは後程。
・・・ってなことで(ん?)「ソニー迷走時代(おいおい!)」を象徴する機器の1つ、PSXで御座います。
本カタログは第2弾(世代的には1.5世代?)DESR-7100/5100。
この頃にはまだこのメニュー画面に関しての名称の記載が無く「ヨコ タテ ピ!」というフレーズしかないですが、
XMB(クロス・メディア・バー)って正式名称がついたのは、その後に本機の内蔵アプリケーションがx-アプリという
名称に統一されてからだと思うのですが確証がない。さて?
ちなみにこのXMBですが、本機のために開発されたとのこと。
録画予約の方法も1990年代のG-コード方式に変わって、EPG(電子番組表)による方式に。
ただこれにも「G-ガイド」? そう、この方式にもジェムスター・TVガイド・インターナショナルが関与。
本機もそうだが、PSXは結局最終機種までチューナーはアナログのみ。WOWOWデコーダー接続も不可。
BSデジタル放送は既に開始(2000/12)していたので内蔵させることも出来たはずなのだが、肝心の媒体(+R/+RW)が
対応出来ていない。(著作権保護の方式がCPRM(Content Protection for Recordable Media)ではなく、
VCPS (Video Content Protection System)を採用したため、デジタル放送データの書き込みが出来ない。
ちなみに-R/-RWについてはCPRM対応の媒体であれば記録可能。(但し、直接書き込みは不可。))
故に本文にもあるようにハードディスクドライブのみへの記録と云うこととなった。
なお-RAMに関しては、意地といっても過言ではないぐらい対応しなかったという。
(これは「スゴ録」も同様だったのだが、2006年以降の機種は再生のみ対応という形に。)
まあ「TV録画機能を持ったPlayStation2」と考えれば、録画機能に重視しなくてもいいのでは?と
思えるかも知れないが・・・
前出にて「内部分裂」というワードを出したが、これに関して説明を。
1992年に創業以来初の最終赤字を計上したことから、事業部制では迅速な意思決定が出来ないのではということで、
1994年に内部カンパニー制を実施。1997年には過去最高収益(当時)を出したのだが、それがかえって仇になった感が。
その頃はプレイステーションの成功でSCE(ソニーコンビューターエンターテイメント)、”VAIO”の成功で
ブロードバンドネットワークカンパニーがそれぞれ収益をあげていたものの、従来の製品を扱うホームストレージ
カンパニーについてはその従来品の成功の呪縛からなかなか抜け出せない状態だった。
1995年に社長が大賀典雄氏から出井伸之氏に代わり、”Digital Dream Kids”などというスローガンを挙げてはみたが、
じゃあそう思える製品が出てきたとは言い難い。
(前出の”VAIO”はどうなの?・・・って思うかも知れないが、コンピュータに関しては再登板という形である。
(その前にSMCシリーズとかHitBit、業務用でもNEWS、QuaterLとかやっていたからね。))
で、そのテープ方式からなかなか抜け出せない状態を尻目に、他社がテープからディスクレコーダーへ切り替えて
行くところに、まさかいきなり第二世代をすっ飛ばして第三世代とも云えるBDZ-S77(ブルーレイディスクレコーダー)を
出すとは・・・ただこのBDZ-S77及び本機はブロードバンドネットワークカンパニーの開発によるもの。
(注:「すっ飛ばして」と記載したが、実は2001年にDVDレコーダーは出している。但し、パイオニアからのOEM。)
自社開発によるものはこのBDZ-S77から若干遅れて、”CoCoon(コクーン)”名義で発売(NDR-XR1)。
”CoCoon”、”Clip-on”及び半年遅れで”スゴ録”を出したが、これらはホームストレージカンパニーによるもの。
当時ブロードバンドネットワークカンパニーを率いていたのが、SCEのCEOだった久夛良木健氏。(後に副社長に。)
だが、BDZはその価格(当時:¥450,000)がネックで普及には至らず、また鳴り物入りで出した本機もコンセプトの
中途半端ぶりが災いし「スゴ録」の出荷台数を本機の価格を下げる形でしか上回ることが出来ず
(実質失敗。但し皮肉にもDVDレコーダーの普及には貢献したと云えるが。)、結局久夛良木氏は辞任に。
尤も、当時ソニーは「スゴ録」だけで出荷台数を100万台を目指していたものの、ピーク時でも達成していない。
しかもそれは本機の出荷台数を加えても達成できてないという。「カニバリズム(共食い)」じゃなく共倒れ?
本機を出していたブロードバンド・ネットワーク・グループと、同時期に「スゴ録」「コクーン」を出していた
ホームストレージ・グループとの確執ってどうだったのでしょうかね?
PSXもPS2もDVDレコーダ、DVDプレーヤーとしては成功していると言えます。
しかし、ゲームのほうはどうかと言うと、PS2はPS1にあったようにミリオンヒットしたソフトがありませんでした。
しかも、PS2になってから前例の無いEmotion Enigine、Graphics Synthesizerという代物のせいでソフトの開発難易度
及び開発コストが上昇し、その結果、PS2向けのソフトを作っていたソフト会社の倒産合併が相次ぎました。
(現在のスクウェア・エニックス、バンダイナムコゲームスがいい例)
結果的にゲームビジネスとしては大失敗に終わってしまったのです。
とまあ、PS2及びPSXにはこういう裏事情があった事もお忘れなく。
まあPS2に関して云えば、当時¥100,000切るのがやっとだったDVDプレーヤーが半値以下で
(当時:¥39,800(税抜))買えるということで本体が売れたわけですから、その点は合ってますが。
ただ、PS2のソフトにもミリオンヒットはあったにはあったが、PS全盛期に売れたソフトの続編が殆どで
達成したソフトは半減(国内販売分 PS:32に対しPS2:16)という状態だったということ。
あと、スクウェア・エニックスの合併理由はソフトの開発というよりも
スクウェア:2001年公開の映画「ファイナルファンタジー」の興行失敗に、任天堂との決裂問題
(スクウェアはこの件もあってSCEからの援助も受けている)
エニックス:出版部門の大量離脱・著作者の離反(所謂「エニックスお家騒動」)の影響
各々の内部事情によるところが大きいかと。
バンダイナムコゲームスのほうはバンダイ側が2つの事業部(バンダイ、バンプレスト)を
抱えていた点もあるので、分散化じゃなく共有化を図ったのかと。
またナムコ側だが、実は2001年にスクウェア、エニックス、それとドリームキャスト事業を
完全撤退したばかりのセガとの業務提携も行っていたのだが。
「ソニー」というワードでネットをウロウロしていましたら、貴ブログにたどり着きました(笑)。
54歳の男性ソニーファン。
懐かしく拝見いたします(笑)。
「スゴ録」はごくまっとうな録画機、PSXはプレステの久多良木さん肝いりの商品、そしてコクーンはネット接続前提のユニークなコンセプト商品で、後にグーグルジャパンの社長になった辻野晃一郎さんが責任者でしたね。