PJ-200 1988年9月

投稿者: | 2023-12-25

どちらかといえばホームユースのイメージがあったHit-Bit Wordとは異なり、ビジネス向けの要素が出てきたワードプロセッサ”PRODUCE”の第2弾・PJ-200です。

PJ-100にはなかった新機能としてスケジューラーソフトが追加で内蔵されたというのだが、果たして手帳代わりに使えたかどうかは疑問かと。
ほぼ同時期に出ていたシャープやカシオ計算機の電子手帳とは勝手が違うような気が。
あと筐体のカラーが2種類に。(PJ-100はブラックのみ)

記録媒体として使われた2inchフロッピーディスク。ディスク本体を見ると”VF”というロゴがあるが、実を云うとこれは本来スチルビデオカメラ用として開発されたもの。
写真左は1981年に技術発表という形で出した電子スチルカメラ”MAVICA”の試作機。この写真にもある2inchのフロッピーディスクが後に統一規格になった。
(当時は他にキヤノン、ミノルタカメラ(現:コニカミノルタ)、富士(写真)フイルム、松下電器産業(現:パナソニック)が賛同。)
ちなみに正式リリースはキヤノンが最初(写真中央  RC-701 – キヤノンカメラミュージアム (global.canon) )。翌年にソニーとミノルタカメラが発売に踏み切った。
(注:ミノルタは1985年に出したα-7000/9000のオプションという扱いで、バックパック形式のSB-70(写真右:α-7000装着状態)/90が発売された。)

でも何故記録媒体を3.5inchのほうにしなかったのでしょうか? パソコンのと勘違いしないようにするため? それともドライブ自体の小型化が難儀だったが故?
軽量との記載があるけれど、やはりプリンタを独立してあることが殆どが筐体に内蔵だった当時としては決め手になるのかと。
ちなみに本体重量はPJ-100の2.34kgに対し、1.8kgと軽量化に成功。

p7,8に実例があるが、当時のワープロは殆ど本体にプリンタ機構も内蔵していたこともあり、印刷媒体の融通が利かなかったかと。
プリンターを独立したことでこういう風なことが出来ますよというアピールが凄い。けれどもカセットテープやビデオテープの印字例もあるが、
インデックスカードや背ラベルはまだいいとして、流石にカセットテープのラベルはメーカーによってまちまちだったから無理か。
(というかこの頃のカセットテープってハーフが広窓化し、更に横長の窓という具合だったが故、ラベルが細長なものになったこともあり、
印刷自体難儀だったかと。これはビデオテープにもハーフの広窓化で(特にベータ方式のは)同じことがいえていたのだが。)

P7下部に「ゴシック体標準装備」ってあるが、当時は明朝体は標準だったがゴシック体はオプション扱いというのが多く結構珍しかったような。
ただ字体の変換は行単位ということで、表示方法が2重改行を使用との記載が。

プリント画像の取り込みもこの頃はまだL版(葉書より一回り小さい)ぐらいか。スキャナー自体もまだ高め。
2inchのドライブユニットについてはNEC側でも同様のものがオプションであったが、さてどちらのOEM?
パーソナルコピーについては、これはキヤノンのミニコピアみたいな感が。
SAZABYブランドのバッグ・・・確かにビジネスユースでもあったかも? ちなみにSAZABYは2020年にバック生産販売事業を終了してます。

あるブログに「200行の壁」ってな話があったのですが、スペックを見る限りそれがメモリー容量の故の話とは考えにくい。というか数値が合わない。
画面上では一応原稿用紙1枚分(400字詰)は表示可能。ただ文書1つ当たりの文字容量が4500字とスペック上ではそう謳っており、
200行だと8000字。これだと文書の容量越えです。どういうことなのでしょうか?

PJ-200 1988年9月」への1件のフィードバック

  1. 瑞鶴

    PJ-100,PJ-1000,PJ-555と使っていました。カセットのインデックスカードに水平印字で印刷できたのが便利でした。本体だけ旅先に持って行ってパソコン通信(懐かしい)をしたりもしました。今あるのは555のみですが、一応今も動きます。

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